かしこく 心ゆたかで たくましい子






  〒371-0852  群馬県前橋市総社町総社1625番地        
          電話 027-251-6662            Fax  027-251-6735
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学校だより「風はなにいろ」



学校だより「風はなにいろ」

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第7号    
第8号    第9号
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総社かるた

 
○光巌寺
秋元山江月院光巌寺といい秋元長朝が1607年に元総社の徳蔵寺を移したものです。秋元家代々の祖先をまつる寺(ぼだい寺)で、京都の延暦寺を総本山としています。あざやかな朱で色どられた山門をはじめとする現在の建物は1800年代のはじめに再建されたものです。境内北には秋元家代々の位はいが安置されています。
○立石のししまい
植野立石のししまいは、約250年前から行われている郷土芸能です。今でも10月の諏訪神社の秋祭りや特別のもよおしの時に舞われています。苦労の多かった昔の農民にとって獅子舞は災難を払ってくれる舞であり、大きな楽しみでした。
○王山古墳
前方後円墳。全長76m。直径50mの後円部は石ばかり積んでつくられています。初め円墳として造られ、前方部が付け加えられたものです。表面には河原石が美しく積まれています。群馬県に横穴式石室が取り入れられた初めの頃のもので羨道も玄室も非常に長く、6世紀初めごろに造られたものと思われます。
○佐渡街道
総社を通る佐渡街道は、佐渡の金山と江戸を結ぶ大切な街道として中山道の本庄宿から分かれて、玉村をへて小相木ー実正ー前橋ー大渡ー総社ー大久保ー八木原ー渋川へと、利根川の西を通っていました。そのため総社町は、城下町として発展すると共に、新しい街道の宿場町としても発展しました。
○大渡の渡し
1616年に前橋藩が作った大渡の関所がグリーンドームの北にありました。付近には橋のない利根川を船で渡るために大渡の渡しもありました。川の中ほどで縄を投げ向こう岸の人にたぐってもらう方法でしたが、増水すると川止めになったり急流のため渡りきれずに水死する人もいるという不便さでした。
 
○石製鴟尾
鴟尾は、中国から伝えられた架空の動物です。火災の時、水を吹き防火の呪いのために屋根の一番高い所の両端に置かれたものです。その建物は、山王廃寺であったと考えられ、この石製鴟尾(高さ1m、重さ1t)を乗せた金堂は壮大な建築であったと考えられます。日枝神社と都丸家と他に全国で二基だけです。
○かしぐねとからっ風
冬から春にかけて、上州名物のからっ風(北西季節風)が吹くので、家の北側と西側にかけてかしの木を一列に並べて植えたり、屋敷林や竹やぶなどを「カベ」のかわりにして風を防ぎます。このかしぐねは、火災のときの防火にも役立ちます。
○熊谷神社
秋元泰朝のあと総社を治めた安藤出雲守は、厳しい無理な政治を行いました。領民は苦しさに耐えきれず1707年~1709年にわたり江戸幕府に訴えました。今の埼玉県の熊谷の稲荷に祈って直訴した代表はとらえられましたが秋元様の援助もあり死刑にならず帰れました。そのお礼に建てられたのが新田の稲荷神社です。
○出口子育て地蔵尊
鍛冶町の辻に、総社城の通路の出口がありました。城の外濠には用水が流れ、夏に子供の水死事故があったようです。その供養と子供守護を祈願し、その辻に江戸中期頃子育て地蔵尊が造立されました。白の頭巾、腹掛が奉納され、庶民の信仰の一端が窺えます。現在は、8月に盆踊りと併せて宵祭りが行われています。
○工業団地と産業道路
前橋は商業の町として発展してきましたが、工業にも力を入れてきました。広い土地・交通の便・水や電気が使える総社町に、第1・第2工業団地がつくられました。電気製品・機械等を作る工場ができました。原料や品物を運びやすくするために広い通路もできました。これが産業道路です。
 
○群馬県蚕業試験場
群馬県は、日本一の養蚕県です。蚕業試験場は、高井にあり、かいこの品種改良と病気の防除や飼育法の研究調査、桑の栽培法や病気の研究と人工飼料の研究をしたり、養蚕技術者の養成をするなど、群馬県の養蚕を発展させるために、たくさんの仕事をしています。
○箕郷線
大渡橋-巣烏-高井を通り高崎市の北原-金古-二之沢-箕郷を結ぶ道路を県道前橋・箕郷線といいます。総社町のほぼ真んなかを東西に抜け、市内から総社にある工業団地や問屋街さらに群馬町や箕郷・渋川方面に運ぶ物資や通勤する人にとって重要な道路です。
○問屋団地
昭和45年に山王の南東に造られました。繊維類・食料品・雑貨などの問屋が60社ほどあり、前橋の商店はもちろん、ほかの町村からも仕入れに来る人もたくさんいて、仕入れや配達が便利になりました。倉庫には県外からトラックや鉄道で運ばれてきた品物が山のように積み込まれ、売り買いされています。
○東覚寺
戦国時代には有力な武士のいなかった上野国は近国の武士が攻め入ることも多く1545年には、高井地区へも信州の武士が攻めよせ、東覚寺のつり鐘が持ち去られました。高井のトウノコシ(塔残し、塔の腰)といわれる所に石の七重の塔があり、室町時代初期に作られた東覚寺はこの付近にあり、今は光巌寺に移されました。
○総社小学校の誕生
総社小学校の創まりは、1873年(明治6年)12月18日、今の元景寺の中に作られた植野学校です。学校の名は上の学校第18番中学区79番小学校といいました。翌年8月30日に植野学校は二つに分かれ、植野学校と総社学校になりました。総社学校は粟島にありました。1893年、今の公民館の場所に総社町尋常小学校ができました。
 
○五千石用水
総社鉱泉の近くから天狗岩用水から分けて、堀の内堀、宿場、水田の三つの用水をかねて作られました。天狗岩用水より以前に作られたと伝えられて「城川」とも呼ばれました。この用水は今でも総社、元総社をはじめ高崎市新高尾・中川・貝沢にわたり五千石の水田をうるおしたので五千石用水と呼ばれています。
○丁間稲荷
領主秋元長朝が天狗岩用水を作る時に、町見台(測量の台・現在は丁間と書く)をすえて測量の基点にしました。用水路をどこに通せば水が流れるか、夜ちょうちんをつけて土地の高さや距離をはかったと伝えられています。その後、稲荷様が祭られ丁間稲荷といわれるようになりました。問屋団地の北にあります。
○城下町
1601年から1633年まで、総社を治めた秋元様が総社城を築き、総社は、城下町及び佐渡街道の宿場町として発展しました。村の中が小さく分けられ、今よばれている新田、巣烏、鍛冶町、粟島などの町ができました。鍛冶町というのは、城下町だったころ、刀や馬の金具などを作る鍛冶屋さんが集まっていたところです。
○総社城
秋元長朝は、父景朝のいた植野勝山の総社城を築きました。領民を励ましたり、名主や問屋にとりたてるなどしながら、城下町づくりにも力を注ぎました。城は利根川の断崖を利用した本丸、その外側に侍屋敷、さらに城下町を作りました。天狗岩用水を西の外堀とし、内堀は五千石用水を利用しました。
○どんどん焼き
年中行事の一つ。正月の松飾りを使って小屋を作り、小正月の14日夜か15日朝に火をつけて焼く。米の粉で作って木の枝にさしたまゆ玉やもち、書き初めやダルマなどを焼き、今年の作物やまゆの豊作や学問成就、健康や家内安全を願います。今も山王地区では行われ、山王地区では鳥追いがおこなわれています。
 
○まゆづくり
養蚕は120年くらい前からさかんに行われました。二階、三階を蚕室として使った大きなつくりの養蚕農家が多く、田の少ない土地柄から「二階で米をとる」といわれ農家の生活を支えてきました。蚕種会社もあり全国各地に売り出されていましたが、年々桑畑も少なくなり養蚕は下火になっています。
○元景寺
気雲山元景寺といい、領主秋元長朝の父景朝の霊をとむらった寺です。秋元景朝の字から名づけられました。秋元家代々の位牌が安置されています。山門両側の古い梅の木は大阪夏の陣にやぶれた時淀君が長朝に助けを求めて総社に向かう途中ほり取った紅梅がふえたとつたえられています。
景朝歿年1587年11月12日
○立石ねぎ
全国でも有名な立石ねぎは大正時代の初めから栽培されるようになりました。養蚕とともに野菜作りにも力を入れた町の人々は、土地に合ったねぎ作りを考え出し、立石を中心に町全体で作られるようになりました。しだいに全国に有名になり東京・新潟・秋田などに売り出され農林大臣賞など多くの賞にかがやきました。
○輪廻塔
光厳寺の墓地内におかれています。もともとは墓地の入り口や道ばたに建てられ通りかかった人が念仏を唱えたものです。1495年(明応4年)に作られたもので、戦乱の世の人々は仏教を信じ仏様をおがみ南無阿弥陀仏を唱えて輪廻車を回していれば、死後は極楽へ行け再び人間に生まれてこられると信じていました。
○力田遺愛の碑
1601年から1633年までの30年の間、総社を治めた秋元様が、甲州(山梨県)へ去って140年余りたった1776年に、秋元様が天狗岩用水を開いたことに感謝して秋元様のおたまやの前に建てられたものです。「百姓等建」の文字が書かれており、横暴な領主が多かった時代には大変めずらしいことです。
 
○根巻石
根巻石は、建物の柱のもとをかざるもので、仏教と関係が深いはすの花をかたちどっています。山王廃寺で使われていた物と考えられ、内側の直径が98㎝で7つの石を組み合わせています。これに似た完全なものには、奈良県興福寺境内のものがあります。
 ○天明の供養塔
天明3年(1783年)浅間山の大噴火は総社でも雷が鳴り小石や泥の雨が降りました。利根川は泥水であふれ、家や大木、人や馬も浮き沈みして流されてゆき、まるで地獄のようでした。人々は流されてきた多くの死者を引き上げ、その霊を厚く弔いました。現在、その供養塔は元景寺の山門を入った右隣にあります。
○総社二子山古墳
崇神天皇第一皇子豊城入彦命の陵墓といわれています。前方後円墳で、墳丘の長さ90m、前方部の幅は61m、後円部は直径44mです。大きな特徴は石室が二つあることです。まず、前方部が6世紀後半につくられ、後円部が6世紀末ごろにつけ加えられました。
○蛇穴山古墳
7世紀終わりごろ造られた方墳。まわりにはほりがありました。石室は羨道がない横穴式で、奥壁・左右壁・天井は大きな一枚石で造られて、二壁の面のあわせめは両方の石のはしを組み合わせています。ふっくらした石の表面、仏様をいれる厨子に似た石室正面等に仏教の影響が現れています。奥に蛇形の梵字もあります。
○宝塔山古墳
7世紀後半ごろ造られた方墳。墳丘は一辺の長さが60m、高さ10mでまわりにはほりがありました。石室は横穴式で、羨道・前室・玄室という複室になっているのでめずらしい古墳です。かべや天井は、きり石やふっくらと削った石を使い、玄室の家形石棺の足は寺の窓形に似て仏教と深い関係にあることがわかります。
 
○中央大橋
中央大橋は、利根川の群馬大橋、大渡橋が交通量の増加にともなって混雑してきたので、市内中央部から、石倉町の北部を通り、問屋町(産業道路)に通じる橋としてつくられました。総工費18億円長さ590メートルのこの橋は、昭和49年に完成しました。 
○万代橋
この橋は、1858年に現在のグリーンドームの北側に造られました。流れの強い利根川にかけるので、橋脚を造らないで両岸から積木細工のように木材を組みたてていき、アーチ型の美しい橋になりました。どんな大水が出ても流されないように万代橋と命名されましたが、1863年に流されてしまいました。
○楓の木
明治45年2月14日、二階建ての校舎が増改築されました。そのときに学区内の字から記念樹として20年から30年の成木が寄付されました。その一本が現在ある「かえで」で樹齢はすでに110年位はたっているといわれていました。学校の位置は変わっても「かえで」は今でも総社小のシンボルです。
○総社町誕生
1888年(明治21年)に町村制というきまりがつくられ1889年(明治22年)4月に連合の村に入っていた植野村、高井村と総社町が合併して、今の総社町が誕生しました。役場は粟島の大神宮の伊勢殿におかれ、初代町長には神谷周吉さんが選ばれました。
○土器
土器は大昔の人々の大切な生活の道具でした。時代がたつと、より高い温度の火で焼く工夫をしたり、へらや櫛で文様をつけたり、形や色も美しい土器を作るようになりました。その特徴によって、縄文土器、弥生土器、土師器などに区別され、作られたときの時代を知るてがかりになっています。
 
○天狗岩用水
領主の秋元長朝が、1602年から3年をかけ作りあげました。この用水のおかげで多くの水田が開かれました。また、工事の間、年貢をとらなかったために、領民から強く感謝され、慕われました。名前の由来は、天狗岩という大きな岩があったためのようです。また天狗が岩を取りのぞいてくれたという伝説もあります。
○上越線
総社小の西を走る上越線は、明治5年(1872年)に本州横断鉄道として計画され、大正10年(1921年)7月1日高崎ー渋川間が開通し、群馬総社駅もできました。昭和6年に全線が開通し、雪国新潟との交通は大変便利になりました。急行や特急も走り、昭和57年には上越新幹線も開通しました。
○石田玄圭
寛政年間に江戸へ出て関流算学を学んだ医者、石田玄圭(?~1817)によりこの地に和算が広められました。特に地方による和算の研究と教授は民間人によって行われました。この頃の子供達は寺子屋で、僧・医師・名主等の人達から、読み、書き、そろばんの勉強を教えてもらいました。石田玄圭の墓は高井にあります。
 
○八方にらみの龍
光巌寺の境内の北には、秋元家代々の位はいが祀られている場所があり、その天井には、「八方にらみの龍」といわれる絵が一面にかかれています。この龍は、、狩野寛信という画家ががいたものです。秋元泰朝が日光の東照宮を建てたときの奉行であることから、日光の「なき龍」のもとになったという伝説もあります。
○秋元様
秋元様が総社を治めたのは1601年から1633年までの、長朝・泰朝の二代にわたる30年間でした。この間に天狗岩用水を開き、総社城を築き、元景寺、光巌寺を建てたりしました。そして、いつも領民のことを思いみずからその手本となり、領民から感謝されました。代々の墓が宝塔山に建てられています。
○発電所
日本でも早く、群馬県では最初の発電所が立石橋の南にできました。天狗岩用水の水を利用して発電したもので、電燈用として前橋市に一千燈分の電気が送られました。総社では一軒だけつきました。明治27年完成以来大正時代までは発電が続けられましたが、今では当時の煉瓦造りの跡が記念碑として残っているだけです。
○古墳群
5~7世紀にかけて造られた古墳が、今、総社に11基残されています。古墳を造るには、大きな石を運ぶ、けずる、切る、みがく、組み合わせる、積み上げる等の技術とたくさんの労力が必要です。それをさせる事が出来たのは上毛野氏という豪族と思われ、古墳はその一族の墓とみられます。
○近代こけし
植野の関口専司さんが明治43年4月にはじめたこけしづくりは、今では全国生産高の70%を占めるほどさかんになりました。東北で生産される伝統こけしに対して「群馬の近代こけし」といわれています。原木を乾燥させたり、ろくろを使っている風景をたくさん見かけます。
 
○勝山小学校
工業団地や住宅団地ができると、総社町の人口も急に増え、総社小の児童数も千名近くになり、新校舎を造ってもまだ足りない状態でした。そこで元景寺の東に新しい小学校をつくることになりました。ここは、昔、植野勝山と呼ばれ、近くに勝山城もあったので勝山と名づけられ、昭和51年4月に開校しました。